能登半島の情報一覧
おもてなし半島能登
能登の花と木を制定能登の百選能登の歳時記 観光ボランティアガイド
門前〜輪島 エリア4

輪島の朝市見学は奥深い

朝市通りの店が並ぶ輪島日本三大朝市。季節や曜日によって違うが、200〜300軒もの店が連なる。新鮮な魚介、乾物、野菜、漬物、民芸品などの品物が並べられ、午前中はひときわ賑やか、さらにここから徒歩5分の住吉神社の境内でも、15時頃から夕市が開かれており、こちらは朝市と違い、露天が10軒程度のこぢんまりしたもの。自分流のアイテム捜しはもちろんのこと、朝市・夕市めぐりも、また楽しい。
朝市通りからちょっと足をのばしてみるんと…
朝市通りの重蔵神社寄りのストリートが、わいち通り商店街。点線を地中化し、石畳を敷き詰めた雰囲気のある通り。ギャラリーやカフェ、ショップ、食事処、観光案内所、バリアフリーのトイレ休憩所などが並ぶ。なかでも、輪島塗苦手作家の作品をメインに展示するこぢんまりしたギャラリーは、古典的な輪島塗から旬のアートも体感できる。
舳倉島
輪島の北方約50kmにある周囲約5kmの島で、全島が鳥獣保護区。野鳥観察のほか、釣りや磯遊びなども楽しめる。


間垣の里
国道の249号を門前町浦上から脇道にそれて県道38号を行くと、つづら坂が続く。西ニヌの集落を過ぎると、海にぶつかる。能登半島が日本海に北面するとこである。冬は3日に1度の割合で、10mを越す強風が吹きつける。そのため、高い竹で作った間垣に囲まれた家が続く。輪島市の大沢と上大沢でみられる風物詩で、『間垣の里』と呼ばれる。ここから西保海岸を経て、海と断崖との間に通じた道を輪島にむかって進む。冬は遠くシベリアから吹きつける寒風で寂しいが、夏は一転する。透明な海と空。海水浴もよし、岩場での釣りもよし。能登の良さを満喫できる体験コースとなる。
Decoration and history are woven into this time-worn bamboo fence a celebration of natural materials growing beautiful as they age.
桐谷エリザベス
(コラムニスト/ニュースキャスター)

六百年の時をかけて築き上げられた美。

六百年の歴史をもつ輪島塗は、加賀前田藩の保護のもとに花開いた工芸品です。その堅牢さ優美さで世界の愛好家を魅了し続ける輪島塗。それは多彩な伝統技法と緻密な職人芸の結晶である。
The lacquerwar maker is constantly refining his art. Its deep mysterious sheen brightens the dinner, adding dimesion to our harvest from the sea.
桐谷エリザベス
(コラムニスト/ニュースキャスター)


地元発コメント 「間垣」

世の中、万事電子機器がハバをきかしているが、能登では今もしたたかな民俗の知恵が生きている。冬の強烈な季節風を和らげ、海鳴りと唸る風音をトーンダウンさせ、おまけに湿気番の役もする。夏は暑さの元凶「西日」を渡って涼しさを呼び込む。憎い間垣だ。
藤平 朝雄(キリコ会館館長)

「まいもんまつり」
「まいもん」とは「おいしいもの」という意味の方言。穴水町では「まいもんまつり」を開催して、能登のおいしさを紹介している。春はいさざ、夏はさざえ、秋は牛、冬はかきと、四季の味覚をイベント会場やお店でいただくことができる。
「まいもんまつり実行委員会」穴水町川島ラ174 TEL0768(52)0300

のらんけバス
輪島市や観光客の足として、平成13年4月に登場したコミュニティバス。輪島駅ふらつと訪夢を起点に4コース(档、漆、海、鯨コース)があり、各コースとも1日8運行。朱漆椀がマークのバス停は全部で59カ所もあり、細かいコース設定がうれしい。乗車料金は1回100円と注目の安さ。輪島塗や加賀友禅等の柄が描かれたボディが目印。
問い合わせ:能登中央バス輪島旅行センター 0768(22)2314



能登で演劇を!
この7月7日に能登半島中心部に「能登空港」が開港した。東京から約60分、能登が身近な存在となる。中島町には仲代達矢(無名塾)の拠点であるこだわりの演劇堂がある。ホリゾント壁が戸外へ開く日本で唯一の演劇空間だ。今年はこんな空間に浸ってみたい。
北川泰三(立教大学兼任講師)

「39歳のデビュー」銭五
海運業で巨万の富を築き「海の百万石」といわれた銭屋五兵衛は、安永2年(1773)、金沢の城下の生まれ。代々両替屋を営んでいた「銭屋」は、五兵衛の父の代で醤油製造業、質屋等を始め、のと古着、呉服商に代わった。17歳で家を継いだが、実権は父が握っていて、後年の豪商のおもかげはなく、いたって平凡な商人であった。
五兵衛が海運業を本格的に手がけたのは、父が亡くなった以後で、すでに39歳になっていた。質流れの船でもうけたのが、第一歩である。
それまで加賀の商人が手がけなかった蝦夷(北海道)、奥羽(東北)と拡大。荒波の航海は危険をともなったが、成功すれば利益も莫大。
五兵衛は、藩の御用船の管理をまかせられた。
その後、五兵衛一族はやがて訴えられ、容疑は、河北潟に毒を流したことと、密貿易の疑いもかけられたが、そのどちらも謎に包まれている。
没収した五兵衛の財産を城中へ運ぶとき、先頭の車が城内入ったのに、延々と続いた車の列の最後尾は、まだ五兵衛の家にあり、その額は今の500億円にものぼったという。(参考文献:「日本の民話」)